防衛産業についての私の意見 海原治

J-102005年、中国は自主開発した戦闘機 殱撃10型 の運用を開始した。(右写真) 開発開始は1985年頃で、速度マッハ2.2、行動半径は1300kmでパルスドップラーレーダーを搭載していると推定されている。
ところで少し前の日本の防衛開発はどんな状況であったか。そして今は? ここに紹介するのは1969年に元 国防会議事務局長 海原治 が雑誌「国防」(朝雲新聞社 昭和44年8月臨時増刊)に書いた「防衛産業についての私見」である。

1. 防衛生産の意味を確定し、その目的を明瞭にしなければならない。

最近、「自主防衛」という言葉が、各方面で使用されるようになり、それとともに、「防衛生産の育成」が強く主張され始めたようすである。
 防衛に関する論議が盛んになることは、まことに結構なことであるが、ともすると、観念的な抽象論の開陳に終わって、実際問題としてねどうすればよいのかが、はっまりしないことが多い。
 「自主防衛」とは、一隊、どの程度の勢力を持つことをいうのであろうか。
 何兆円何千億円の経費をかけて、何万人を、何年間教育訓練すれば、今日の防衛力が、かくかくの水準にまで向上するであろう。この程度の戦力となれば、これで始めて、自主防衛体制が完成するのだ---といった、現実的な、具体的な主張はどこにも見当たらない。
 「防衛生産の育成」についても同じような状況である。防衛生産を大いにやれという声は、防衛費の増加をはかれということと同じ意味である場合も少なくない。
 防衛生産は至って重要な意味合いのものである。有事に際して自衛隊の行動は、これによってその死命を制せられるであろう。このことは太平洋戦争によって十二分に体験ずみの事項である。重要なものであれば、それだけにその取扱いが慎重でなければならず、あいまいな形では、論議できないものである。
 防衛産業の育成強化とか、防衛生産の振興を考えるに当たっては、その言葉の内容を明確にし、具体的に何をどうするかを明示することが絶対に必要であろう。
 防衛生産の育成をはかれということを、「有事の際に戦闘力を構成する装備品は、日本の国内で生産できるようにしなければならないから、その能力を国内に保有すること」を意味するとすると、FXの国産は、この意味での防衛生産の育成とはならないのである。
 F86F、F104と数百機の戦闘機が過去において、国産されたのであったが、これによってF104級の戦闘機を、自分の手で作り出す技術とか能力が、われわれの手の中に残ったわけではない。
 ファントムF4型の百機生産したあとでも、そのことは、この級の戦闘機を生産する能力を取得させることとはならない。
 「国産しながら、国産できない」のがわが防衛生産の実体である。この奇妙な現象が、どうして生まれてくるのであろうか。日本語の表現があいまいであり、事態を正しく伝えないからである。
 FXを国産するという場合の「国産」は「組立て」が大部分である。素材までを対象とすると、日本国内での生産能力は全く僅少なものでしかない。
 いわば、プラモデルを組立てるごとく、米国で制作された、手順、方法に従って、設計書通りに、組立てを実施してゆくことが、いわゆる「国産」である。「国産化率」60%と聞くと、6割は日本で作れると思う人が大部分であろう。しかし、この場合の「国産化率」とは、その所要経費の6割が日本の円で支払われたということであり、日本円支払いの割合を示すに過ぎない。6割が日本で生産されたことではないのである。
 平和なときに一般国民が使用する品物であれば、全部が国産されなくても、一向に差支えないであろう。部品の補充も計画的に実施可能である。
 ところが、戦闘行動を前提とした、武器類を生産する防衛産業にあっては、事情は全く別である。
 有事の際の所要を満たすことが防衛生産に対しての要請であるとすると、その品物を100パーセント、国内で作り出せることが、理想的な姿である。仮に完成品を構成する部品の中で、85パーセントしか国内で生産できないとなると、残りの15パーセントについては、なんらかの措置が必要となるはずである。平素からその一定量を備蓄しておくか、海外からの緊急輸入で間に合わせるか、二つに一つの方法しか存在しない。海外からの輸入となると、そのための時間的余裕が、決定的な条件となる。
 何年もかかって戦争の準備をした、過去のものの考え方は今日および将来には、全くあてはまらないことか、改めて指摘されなければならないのである。

2. 自衛隊の主要装備品について、国内で生産しうる能力と、その生産を可能にする前提条件とが、はっきりと確定されなければならない。

第三次防衛力整備計画の大綱では、「有事の際すみやかに事態に対処し、行動能力を継続的に維持し得るよう弾薬等後方体制の充実を図る」ことが重点とされ、「装備の適切な国産を行い、防衛基盤の培養に資する」ことを方針としている。
 この場合の「有事の際すみやかに事態に対処する」ことは、そのために、一ヵ月の余裕ありと考えるのか、三ヵ月の準備期間を前提とするのかによって、具体的な施策のうえでは、非常に大きな差異を生じてくるのである。
 さらに、国際関係の変化は、急激におとづれることがあり、軍事は最悪の状況に備えて計画される必要があるから、事を緊急輸入によって措置しようと考える場合には、慎重な配慮が必要である。
 太平洋戦争に備えての、日本国内の航空機生産増強のためには、優秀なドイツの工作機械4200台の輸入が前提とされていたが、この想定は独ソ開戦という事態のために、実現不可能となり、このことが軍需生産をいたって惨めな結果に導いたと、戦史は説明している。しかも過去の戦争では、それでも、代替の方法を探し出す時間的余裕があった。将来のわれわれには、そんな余裕はないと考えなければならない。
 この点が、防衛生産を考える際の最も基本的な問題点であるが、これまでに検討されたことがあるとは、聞かないのである。
 有事の際の行動能力は、何ヶ月間継続し得ると考えているのであろうか。
 太平洋戦争の後で、米国の戦略爆撃調査団のまとめた報告書では、わが国の能力を次の通り判断している。
要するに日本という国は、本質的に小国で、輸入原料に依存する産業構造を持った貧弱な国であって、あらゆる型の近代的攻撃に対して無力だった。手から口への、全くその日暮らしの日本経済には余力というものがなく、緊急事態に対する術がなかった。原始的な構造の木造都市に密集していた日本人は、彼らの家を破壊された場合、住む家がなかった。
 日本の経済的戦争能力は、限定された範囲で短期戦を支え得たに過ぎなかった。蓄積された武器や石油、船舶を投じて、まだ動員の完了していない敵に対して痛打を浴びせることはできる。ただそれは一回限り可能であったのである。このユニークな攻撃が平和をもたらさないとき、日本の運命はすでに定まっていた。その経済は、合衆国の半分の強さを持つ敵との長期戦であっても、支えることはできなかったのである。
 この批評は、日満華を結ぶ広域経済圏を持っていた第日本帝国についての観察であるから、今日の四つの島しかない日本国は、もっと貧弱な状態にあることを自覚しなければならない。
 世界第三位という経済力は、その大部分が外国の資源を利用して成り立っているのである。
 外国の侵略を受けた場合、かりに一ヶ月で陸上戦闘が終息してしまうのであれば、二ヶ月かかる兵器生産は無意味である。国内で一ヶ月の戦闘が続いた後を考えると、兵器の生産は不可能状態になっているか、新しい体制での政治が行われているか、この二つの中の一つでしかないであろう。
 したがって自衛隊の行動能力の継続期間の見積もりがね防衛生産の価値を測定する物差しとなるといえよう。
 さらに、その行動能力は、防衛生産の能力によって規制されるのであるから、計画の順序としては、わが能力の認識から始めなければならないこととなるであろう。
 重要な装備については、今日の国内の能力は、かくかくであり、これについて、しかじかの措置をおこなえばこのようなものとなる。

 しかし、これこれについては、輸入に依存する以外には道はない。―という、防衛生産の能力見積表が用意されなければならないのである。

3. 国内に生産能力を持っていなければならないものについて、長期的な研究開発計画を樹立して、その能力を培養しなければならない。

 有事の場合の自衛隊の行動を支える重要装備品は、輸入を前提としては間に合わない。どうしても、日本の国内にその能力を保有しなければならない。逆にいえば、有事に際して、防衛力を構成し得ないようなものは、平時の教育訓練には必要ではあっても、戦闘力を支えるための防衛生産とはならないのである。
 したがって、どうしても、自力で研究開発の努力を積みあげてゆかねばならないのであるが、さてこの面の検討はどうなっているのであろうか。
 われわれ日本人は、とかくせっかちである。五年も十年もかかって、じっくりと地味な努力をつみ重ねることが不得手である。特に自衛隊の装備を考える人びとは、世界各国の一流品をパンフレットの上で眺め、その最も良さそうなものを、一日も早く手に入れたがる傾向がある。
 来年、さ来年に戦争があるとは誰も考えないのであるから一流品を持つことを急ぐのは、そのことが「士気」に影響すると考えるのであろうか。
 このようなことを繰り返していると、日本の防衛生産は、いつまでたっても日本国内に根を下ろすことができないであろう。
 遅れた技術で製作する品物が、十年も二十年も進んだ外国の製品に劣るのは、あたりまえである。用兵の立場では、今年とか来年とか、目前のことしか考えられない気持ちを持つことは、解らないわけではない。しかし、そのことは、結局最も必要な国内戦力の培養を阻害していることに、気付いてほしいものである。
 わが国は日米安保体制を国防の基本方針としている。在日米軍四万の駐留がある間は、どこからも、侵略されることはないのである。この間を利用して、十年、二十年の先を考えて、主要兵器の国内生産能力を取得しなければならない。それまでの間は、二流、三流の兵器で辛抱するのである。
 自動車のロータリーエンジンの一つのねじの完成のため、まる二年の努力が必要であったと述べられている。研究開発の困難さと重要さを、端的に示してくれる一つの例であろう。
 FXの選定が新聞紙上を賑わし、ファントムの国産が決定されたばかりであるのに、さらに次の戦闘機が話題になっているとの報道がある。もしこのことが事実であるとすると、航空自衛隊と防衛産業の育成とは、無縁のこことなるであろう。
 たまたま、5月29日の航空ニュース第32号では「FXXは国内開発を考慮」という見出しで、航空工業会理事長の話がのせられている。これによると「昭和27年4月に航空工業が再開されてから今日まで17年間に、わが国で製造された航空機の数の累計は1948機で、生産額の累計は約5928億円である。…」とのべたあとで、「またF−4EJの次の主力戦闘機についても四次防では考えなければならないのではないかと思う。XT−2の開発経験を活かして、次期戦闘機は自国で開発することをひとつ考えてみるべきであると思う。戦闘機の寿命は10年未満であり、一方開発には少なくとも7,8年をみておく必要があるので四次防前半では次期戦闘機の開発に着手しなければならないので、私はあえてこのように考える次第である。」と。
 この談話の中で、次の点が問題である。
 (1) わが国で製造された航空機と表現されると、事情を知らない人々は、普通の常識で、これを解釈するであろう。F―104が日本で作れると誤解するのである。正しくは「組立てたり、製造した航空機の数」ということであろう。
 約6000億円を投じ、1948機を製造した今日においても、超音速戦闘機を製作する技術は、いまだに取得されていない。その理由は、一体なんであろうか。
 「」  (2) 「XT−2の開発経験を活かして」とあるが、XT−2は開発に着手したばかりである。どんな開発経験が得られると予測しているのであろうか。その「開発経験が生かされれば、次期戦闘機が自国で開発できる。」と判断されているようすであるが、ファントム程度の戦闘機を予想すると、これは夢物語でしかない。
 F104とかファントムF4とか世界の一流機を頭に置かず、搭載兵装をも含めて、とにかく、日本人の手で、国内の生産力で、出来るものを作ってみるというのであれば、そのような表現をしてほしいところである。
 (3) 「戦闘機の寿命は10年未満である。」とはなにをいおうとしたのであろうか。一つの型についての発言か、一つの航空機の耐用年数についての発言であるのかがはっきりしないが、いずれの場合でも、この表現は不正確であって、正しくないものである。

4.防衛生産の育成計画、研究開発のための計画は慎重かつ綿密具体的に検討され、現実の能力を正しく把握したものでなければならない。

 太平洋戦争の跡を辿ってみると、明治以来練りに練り、鍛えに鍛えた、陸海軍の戦争準備計画の、その多くは、単なる作文に過ぎず、担当幕僚の希望的観測の所産であって、しかも不可能を可能とする精神一統何事かならざらん主義で美しく形容されているのである。われわれは、この過去の過ちを、再び繰返してはならないであろう。
 しかしともすると、文章の修辞に力が注がれ、形容詞や助詞の使い方が論議されるだけで、内容の検討がなおざりにされる傾向がある。上級責任者が、力を入れて指導しないと依然として、景気の良い能力判定や、威勢の良い文章が、計画を無意味なものとし、ときには有害なものとさえする危険がひそんでいる。
 貴重な戦史に学ぶ意味で、過去の二、三の実例を紹介する。
 (1)  昭和11年6月3日、天皇の勅裁を得て定められた、帝国国防方針では、「一朝有事に際しては、機先を制して速やかに戦争の目的を達成する」ため、「作戦初動の威力を強大ならしめること特に緊要なり。尚将来の戦争は長期に亘る虞(おそれ)大なるを以て、之に堪ふるの覚悟と準備を必要とする」と宣言したあと、「米国、露国を目標とし併せて支那、英国に備える」と規定した。
 なんという壮大な構想であるかと、そのはなばなしさに眼を奪われるのであるが、前記の米国の戦略爆撃調査団の報告書の記述とは、全く対照的な内容である。
この壮大な構想のもとで、国防産業の振興は昭和16年を目標として、飛躍的発展が図られたのであるが、その計画の内容を、船舶について調べてみると、希望の姿が直ちに計画の目標とされていることが良くわかるのである。
船舶を対象としたのは、船舶の確保こそが、和戦の鍵であったと戦史が認めているからである。
大東亜戦争全史では、
「国力の消長は、偏に船舶の保有量に懸かっていた。実に戦争遂行上の問題は、船舶の問題であったのである。対米英蘭作戦が海洋作戦を主体とする関係上、作戦遂行のため多大の戦艦を必要とするは多言を要せず加えるに戦争は、且つ闘い且つ養う方式を高度に要請させられこれがための物資の輸送に多大の戦艦を必要とした。」
と記されている。
 この致命的に重要な船舶の見積もり、がどうであったか。
 計画は、「1000トン以上の船舶の保有量を差し当たり700万屯に達せしめる。」ことを定めた。しかしこれは達成不可能な数字で゜あった。昭和16年8月現在の保有量は598万屯であって、設定された目標に対して、実に100万屯も不足していた。当時の建造能力は、年間40万トンに過ぎなかったのである。ところが、この年間40万トンの能力をさらに飛躍的に発展させると、年間60万トンまで拡充することは「必ずしも困難ではない。」と判断して、その数字を前提として船舶の取得を考えたのである。---希望的観測以外の何物でもない。
 物動を担当した幕僚の話として、「大東亜戦争中たえず大問題となった船舶については、最初から大量の不足があり、これを外国の外国船の購入と雇入とでカバーするという。『相手が契約に応じなかったらどうするのか、強制するのかしないのか。強制するとしたら、その国を敵に回すことを覚悟しなければならないが』と、意見を述べたことを記憶するが、結局ウヤムヤに終わってしまった。」と述べられている。
 以上は、船舶の入手の見積もりの誤りであるが、さらに船舶の喪失予想の面でも、重大な誤りを犯しているのである。
 大東亜戦争全史によると、造船能力を50%向上することは、必ずしも困難ではなく、「損耗のこれを著しく超過するか否かが、最大の問題であった。実に船舶損耗量の推定こそは、戦争の運命、従って和戦の決定を左右する関鍵であった。」と記述されている。
 bk  この最も重要な船舶の損失量は次の通りである。単位は万トン
海軍の見積政府の見積実績
第1年目80110125
第2年目6080256
第3年目7080348
合計210270729
 3年間の累計でみると、海軍の兵棋練習の結果は210万トンであるが、実際はその3.5倍にあたる729万トンの喪失となった。
 敵の力を過少評価し、おのれの力を過大評価した、具体的な実例であるが、和戦の運命を決するほどの重要さを認められていた事項についての誤りであるだけに、なんともいいようのない空しさを覚えるのである。
 (2) 「ハワイ作戦を実施した帝国海軍の航空軍備の急速拡充の要求に対し、わが国の工業力はこれに追い付けず、航空機材の整備は、所要量を充足できなかった。」
 「航空機を例にとれば、昭和16年度戦時編成の第1年所要調達は約7000機であるが、昭和17年4月現在の生産力予想は、年産2352機で、所要量の35パーセントに満たない有様であった。
 この生産拡充の障害となったものは多々あるが、工作機械の不足が大きく、ドイツから約4200台購入を期待していたが、独ソ開戦で輸入の見込みがなくなり、その一部には国産できないものがあった」のである。
 さらに、正確な予測が可能であるはずの航空要員の充足はどういう状況であったか。
 「邀撃作戦の構想を持っていたわが海軍としては、全力を結集した一回の決戦で敵艦隊を撃滅することを考え、人的軍備もこれに応ずるように行っていた」し、昭和14年航空制度研究委員会の答申によれば、平時は常用機の3倍、戦時は兵力を2倍に増加することとして、2.5倍の組数を目標とすべきだとしている」ほど、人員の養成が重要視されていたのである。
 ところが、昭和15年度戦時編成における所要人員は、作戦部隊において操縦員2516名、偵察員3137名、練習部隊において操縦員855名、偵察員543名、総計操縦員3371名、偵察員3680名であった。しかし昭和16年3月末現在の不足人員は、操縦員521名、偵察員980名で、作戦部隊の充足率は、操縦員80パーセント、偵察員70パーセントであった。しかもこれには、卒業したばかりの一人前でない者も多数含まれていた」。
 

海原治
左 米国防長官 McNamara 右 海原治

海原治
海原 治

海原治

1917-2006
1939年 内務省入省, 1940年陸軍第11師団入営し終戦。
1946年 警視庁に異動
1948年 保安庁に移り防衛庁, 自衛隊の創設に関わる。
防衛庁官房長の時の1967年, 戦闘機F-104の後継機選定の政争に巻込まれ, 国防会議事務局長に転任。 1973年退官して軍事評論家となる。

著書

戦略爆撃調査団
United States Strategic Bombing Survey
米国による戦略爆撃の効果を検証するために, ルーズベルト大統領の指令に基づいて1944年9月に設置された陸海軍合同機関。1946年7月に報告書が完成した。

日米生産力